大地震ウォーキング体験記  竹橋からつくし野までの7時間
渡辺 啓三 

3月11日の午後2時46分に今度の大地震が発生した時、私は皇居近くの竹橋のビルで同窓の友人達と月例の碁を打っていました。

盤面から碁石がこぼれるほどの揺れで、「家が心配だから、今日はこれまで。」ということになりました。携帯電話はかかりません。ビルの管理人達に聞いても「三陸沖らしい。」というだけで、それ以上のことは分かりません。

去りがけに、頑丈そうな会場の建物の基礎部分と道路との接点にひびが入っているのに気づきました。「可なり大きかったが、このくらいなら我が家はまず大丈夫。電車は当分動かないだろうから、歩いて行って、動き出したら乗って帰ろう。」と考え、友人達と別れて皇居の内堀に沿って歩き始めました。3時半頃でしたか。

内堀通りは早くも車が一杯でした。ちょうど毎日新聞社前にさしかかった時、ビルの中から避難して来た路上の人たちが「揺れている。揺れている。」と騒いでいます。見上げれば、ほんとうに、白い円筒形の高い建物が左右に揺らいでいます。「これは大きい。危ないな!」と感じましたが、周囲には緊迫感はなく野次馬的ムードです。
国立新美術館前にも大勢の鑑賞客が館内から出てきて、不安げにたむろしています。

進むにつれて、だんだんと歩道を行く人の数が増えてきました。でも、その間を縫ってたんたんと走る余裕の(?)“皇居周回ランナー”もいます。状況はどうなっているのでしょうか。

千鳥が淵公園内にはかなりの数のサラリーマンが建物内から避難してきていますが、お互いに談笑している風情です。それでも、半蔵門の交差点辺りまで来ると、会社・事務所の早仕舞いが決まった人達なのでしょう、帰宅する人達で歩道は一杯になってきました。

国立演芸場の横を通った時に手洗いを借りに入ると、ロビーは観客の高齢者達で一杯。テレビがあり、劇場スタッフからお茶を頂いて、暫くニュースに注目。事態の概要を知りました。
これでは電車はなかなか動かないでしょう。空の雲行きも怪しい気配を見せています。ご老人達はこれからどうするのか、バスでも迎えに来るのなら良いのだがと心配ですが、こちらも先を考えるとゆっくりしてはいられません。席を立って、永田町から赤坂見附を抜けて青山通りへ。いよいよ“246号線”です。

歩道はますます混んできました。会社帰りの人達が殆どです。ヘルメットをかぶり、“非常持出袋”とマークされたリュックを背負った人、10センチもあろうかと思うハイヒールのお嬢さん、上司と仕事の話をしながら歩く人等など、いろいろです。

やっとコンビニがありました。客は多いのですが、意外にまだ商品が沢山あります。水1リットル、カロリーメイト2個、チョコレート2枚と傘を買いました。案の定、ぽつぽつと降り始めました。余裕で傘を広げて歩き続けます。

青山1丁目、外苑前、表参道。地下鉄駅への階段前に立つ職員に「電車の具合は?」と駅毎に尋ねますが「見通しはついていません。」という返答ばかり。

青山学院前の“こどもの城”から乳母車を押した若いお母さん方が出て来て、渋谷方面に向かいます。どこまで行くのでしょう。足元がいま一つのお年寄りも、若者に追い越されながら歩いています。ほんとうにどこまで行くのでしょう。皆さん元気にお話しながら歩いていますが、表情には不安が、真剣さがうかがえます。

道端の喫茶店を見れば、「電車が動くまで・・・」と覚悟を決めたのか、お客がかなり入っています。「ウーン。歩くのと、待っているのと、どっちがよいのかなぁ?」

途中にあったタクシー乗り場はいずれも長蛇の列でしたが、渋谷のバス・ターミナルは広場からはみ出しての混雑。「確か、二子玉川まで行くバスはあったはず。」とは思いながら、「何時まで待ったら乗れるやら・・・」と、歩きを続行。

南平台を上り、大橋、池尻、三宿。殆ど動かない自動車の渋滞を横目に、皆さんと歩く、歩く。追い抜きながら「どちらまで?」とお聞きすれば、「溝の口まで。」、「鷺沼まで。」などなど・・・。「私だけではない。皆さん、遠くまで行くんだなあ。」と心強く思いながらも、「つくし野まではいないなぁ。遠いなぁ・・・。あと、30キロぐらいだろうか? 時速5キロで歩いて、あと6時間か!」

“年の割には足は速い方”と自認していた私を追い抜いてゆく背が高く格好の良いお嬢さんがいて、びっくり! 追いついて「失礼ですが、早いですね。何かスポーツをしてられるのですか?」と聞けば、「いえ、別に。おじさんと競ってきました。」とのこと。「どちらまで?」と続けると、「横浜まで。」「それはたいへんですね。」、「青葉台でバスに乗れれば良いのですが・・・。」「そうですね。青葉台まで行けば・・・。」とは言うものの、バスがある時間までに青葉台まで着けるのかなぁと心配です。口にも出せず、暫くの間並んで歩いて、「お先へ失礼!」。

三軒茶屋から駒沢、用賀。やっと首都高の高架が右へ逸れてゆき、瀬田。
ここから“246”を離れて二子玉川駅前への道に入りました。高島屋などなど、明るく賑やかな商店街を抜けて多摩川の橋にかかると、車道はもとより歩道がますます大混雑。見れば、歩道が片側にしかありません! 向こうから来る人と行く人とで歩道があふれ、柵を跨ぎ車道に下りて端を歩く人も・・・。自動車は全くの徐行なので不注意にぶつかられる怖れはないのでしょうが、時々、後ろからバイクが警笛を鳴らして狭いすき間を通り抜けて行きます。危ない、危ない。

多摩川を渡りきって、二子新地から高津を過ぎて溝の口へ。
トイレを借りにコンビニに入ればここも行列。足踏みして待つ人もいて、パス。

「鷺沼への道はどっちでしょうか?」と店員に尋ねると、「左へ。梶ヶ谷への道を登って行けば“246”にぶつかります。」とのこと。「“梶ヶ谷へ登る”と言うのはどういうこと?」と思いながら行けば、確かに“谷”への登り坂です。あたりは停電で真っ暗。そうなってみると歩道がでこぼこで歩き難いのが一層こたえます。

“246”へ出ると、二子玉川までの混雑はどこへやら、自動車はすいすいと走っています。「ヒッチハイクも良いなぁ。」の思いが頭をかすめましたが、「まぁ、これも滅多にない経験だ。トレーニングにもなる。ここまで来たら、たとえ電車が動き出しても歩いてしまえ!何時間で歩けるか、やってみよう!」と思い込みました。全く軽率の至りです。

“246”沿いには自動車用の距離表示があります。「市ヶ尾 8キロ」と出ました。初めての“行き先より手前の距離表示”です。「厚木xxキロ」等という、“行き先より遠い”先の表示と違い、こういう“近い”表示はかえって負担に感じました。遠いのです。「市ヶ尾から先が8キロとして、あと16キロ。3時間か!」

なかなか距離が縮まりません。やっと江田駅前に来ました。これから市ヶ尾の坂を登って下って、藤が丘の坂を上って、青葉台の坂を越えて・・・・。
さすがにこの辺まで来るともう歩く人は少なくなりました。追いつきざま「今晩は。どちらまで?」と聞くと、「相模原まで。お宅は?」「つくし野です。」「それなら、もう直ぐですね!」に、「そうです!」と苦笑い。

藤が丘を過ぎて「青葉台駅入口 500メートル」の表示があり、やがて見慣れた“スバル”、“エッソ”の看板が右手に見えてきて、つくし野はもう近いと実感しました。あと1時間もすれば着くでしょう。

反対側の“246”上り車線は大変な渋滞で動いていません。しらとり台を過ぎて長津田から森村学園前への道に入りましたが、この“バイパス”も完全な渋滞。「どこまで続いているのでしょう?」

つくし野駅の陸橋を渡り、ホーム・ストレッチにかかりました。反対側の自動車の渋滞はまだまだ続いています。さぁ、貝がら公園です。見れば、やはり家路をたどる“地震難民”の一人でしょうか、木陰で用足しをする人影が一つ。今日ここまでの道筋で何回かトイレのお世話になったコンビニもこの辺にはありません。「おつかれさま。無事に家に着いてください。」と、心ひそかに思い、咎める気もなく行過ぎました。

10時半。やっと、我が家に着いて「ピーン、ポーン。」


終りに:
思いがけず都心から家まで約40キロを歩き通すことになって、思いました。「道すがら歩行者の事故や落伍者が見られなかったことは何よりでしたが、災害時に歩いて帰ることは、近距離の場合を除いて、おすすめしません。」

今度の場合、途中の道筋の建物や道の損壊がなくてもこれだけかかりました。
実際の災害時には、沿道には倒れた建物があり、上からまだ落ちてくるものもあるでしょうし、道も壊れているでしょう。通行止めのエリアもあるでしょう。勤め先から帰宅する人に加えて、沿道の地域に住む人達までが荷物を持って歩き出せば、道の混雑は今回などとは比較にならないでしょう。とりわけ、多摩川の橋はたいへんな混雑が予想されます。あるいは、橋が落ちているかもしれません。

大きな災害に出先で出会ったら、まず、夜を過ごせる安全な避難場所を探すこと、コンビニへ急いで水と食料を確保することだと思います。お家のことが心配でも、また、体力があっても、歩き出すのは状況がはっきりしてからでしょう。

今回の私の歩きは、災害の様子も大体は分かり、家族とも連絡が取れて安否を確認した上でのことで、体力にも自信があり、いはばマラソンに参加しているような興味本位のものでした。
申し上げるまでもないと思いますが、決しておすすめできません。念のため。