「 私の桜 」
福  朗


  つくし野の桜並木は有名で、花の季節には電車、車で花のアーチをくぐりに来る多くの人でにぎわう。 駐車場があるわけではないので、シーズンの土日ともなると桜見物渋滞にみまわれ、沿道にお住まいの方や、仕事の車などは、花の浮かれ気分どころではないだろう。

  日本人は桜の下で妙に心が騒ぐのはなぜだろうか、そのうち舞えや歌えのはずんだ気分になっていく。つくし野でも大きな公園では平日の昼間は子ども連れのママ達、夕方は近くの大学の学生グループ、夜は会社帰りの地元の同窓生、休日は家族連れ…と、それぞれの花の宴を楽しんで微笑ましい光景だ。

  実は私には、独特の桜の楽しみ方がある。借景ではあるが我が家の目の前に見事なしだれ桜が一本植わっている。木の半分以上が道にせり出し、その美しさに目を奪われて、走る車は必ず速度をゆるめて通っていく。私は毎夜、街が静まりかえる頃になるとその真下に一人立つ。ほのかな明かりで濃紺の空を背に花の世界が浮かび上がる(黒ではない、黒に近い濃い紺なのだ)。他には何も見えない。桜と私とそして闇だけ。この世でもあの世でもない、幽玄の世界にふと引きずり込まれた様だ。
   そして目に見えぬ大きな力に包まれ一つ一つの花々に見守られているような安心感にひたることができる。敬虔な気持ちを持つことを宗教の場以外で経験したようなものかもしれない。
   
  並木道や公園の花の山で仲間と楽しく花見をするもよし、一人で一本の木と静かに語り合うもよし。
   四月初め、つくし野を歩くと私の桜とも出会えるはずである。

                                                                                                                          以上