ボランティア報告 in 陸前高田




市街地がすべて消えてしまった町

 
震災前の陸前高田市は人口がおよそ24,200人でしたが、この震災で、亡くなられた方は9月26日時点で死者1,796人(死亡届けのあった行方不明者を含む)、行方不明者152人となっています。岩手県三陸沿岸の人的被害の30%を越す大きな被害が生じました。

 
被災戸数は全壊・半壊合わせて3,368戸、被災世帯は4,465世帯(市の公表件数)に及びます。津波と地震により中心市街地はすべて消失し、最大80センチという地盤沈下の跡は、至る所で水がたまった大きな沼となっています。


 市の公共施設全体の被害の総額は公表されたデータによる概算でも1,218億円に及び民間施設の被害額を入れるとさらに巨額な被害額になります。

 市庁舎をはじめ博物館、図書館、公民館、体育館、保育所、学校など市の中心部にあった施設は全壊し、海の近くに作られた野球場2面やサッカー場は、波の中に照明塔を残すだけです。そして松並木で全国的にも有名な名勝高田松原は、知られているようにただ1本を残しすべて流されています。 
 現在、海水面と同じになってしまった地盤に対する仮設護岸整備、流された橋の仮設橋の架橋、幹線道路の復旧工事などが急ピッチで行われています。JR大船渡線は高田の手前気仙沼から先は鉄橋も駅も流され、線路も曲がったまま赤く錆びて手つかずの状態です。荒涼とした広場には潰れた自動車が並べられ、積み上げられた瓦礫はコンクリート片、木材、金属などが重機で分別され新たな山を作っていました。
 
ボランティアセンターの活動

 私たちが支援活動をする陸前高田市社会福祉協議会のボランティア・センターは、壊滅した市街地から気仙川沿いに北に車で10分ほど入った横田町の川沿いにあります。再建された社会福祉協議会の下で、新たなスタッフにより手探りで運営され、支援活動に駆けつけるボランティアのコーディネイトに立ち向かっています。

 

 これまで北海道から沖縄まで、陸前高田市の人口の倍を超える5万人余のボランティアを受け入れ、滞在した9月16日から21日の間でも、休日は1,000人を超え、平日や雨の日でも400人を超える支援者が、新潟、鳥取、福井、埼玉、東京などからバスや自家用車でやってきました。中には自転車で来る支援者もいました。大学のゼミ、部活の高校生、NPOグループ、企業の社会貢献活動による支援者があり、休暇を利用したツアーバスで駆け付ける個人の支援者も数多くいました。リピーターも多く数回から5、6回という人、中にはそのまま月単位で居ついてしまう人もいます。アットホームな受け入れ態勢が多くの支援者を呼び寄せているようです。
 
OBの参加もできる

 私が参加することになった支援活動は、陸前高田市社会福祉協議会が運営するボランティアセンター業務のサポートでした。私は、これまで現地での支援活動ができることを希望してきました。反面、現地で役に立つのだろうか、自分に出来る仕事があるのだろうかと考えると足がすくむ思もしていました。6月頃、かつて働いた自治体の友人に支援活動があるなら参加できる機会を知らせるよう頼み込みました。8月の末になって自治体労組による支援募集があり、退職者も応募できるという知らせを受けました。当面の仕事に目処がつく9月16日出発、21日帰宅となる派遣計画があり退職者の枠で参加の申し込みをしました。
  
 
社会福祉協議会の活動を身近で知っているということからか、ボランティアセンターでの支援活動は、東京の自治体労働組合によりこれまで11次にわたり派遣が行われています。
 
12次となる今回は、昭島市社協、日野市、町田市、中央区の4人の男女の現役職員とOBの私の5人という班になりました。










 5泊6日を過ごした宿舎は(ベースキャンプと呼んでいました。)、陸前高田市から国道343号線から入る一関市大東町という山懐の集落にある廃校になった小学校です。ボランティアセンターからは車で50分程度かかります。  
近くのコンビニには20qは走らなければならない山深いところです。ここに労働組合の全国的なナショナルセンター傘下の組合員が寝泊りしており、自治体や教職員の組合員だけでなく、自動車、電機産業など民間企業で働く青年が、日々交代しながら百名を超える人数で宿泊していました。

草原は以前は田畑でした

 現在、陸前高田市で支援活動が行われている地区は、まだ海水の残っているような海岸部周辺の田畑(だった所)が多くなって来ているようでした。あらゆる物が流れ込んだ畑や田んぼは今や雑草が生い茂り草深い草原のようになっています。その草を刈り取るための活動ですが、草むらには鋭い釘の出ているような木材片、ひしゃげたとがった金属片が隠れているだけでなく、蜂が巣を作り刺される人が頻発するなど油断できない活動です。                                                       

 遠くの地方から支援活動に来て活動内容が草刈作業と聞いてがっかりする人も居ると聞きました。しかし支援活動が、被害の甚大さにどう立ち向かえば良いのかわからなくなっている被災地域の人の心を暖め、溶かし、失われたものを少しでも目の前の草原から取り戻す気持ちにつながってもらえば、草刈作業はとても重要な支援活動になっています。


センターの一日

 受付け班、ニーズ班、マッチング班、医療班などの班がある中で私たちは資材班を受け持つことになりました。まず資材受付場所にテントを張り、デスクを置いての場所づくりが資材班の日々のスタートです。
 ベースキャンプから6時に出発し車中でおにぎりを頬張りながら山道を走り、センターには7時半前までに到着しなければなりません。駐車スペースには、8時半からの支援活動受付開始を前に、すでに東京などから徹夜でくる旅行会社企画のボランティア・ツアーバス(ボラ・バス)到着しています。
 後続する団体のバスや、小グループの乗用車が支援活動に出発する際、スムースに移動できるよう考えながら車の誘導を開始します。赤い誘導バトンを持って、大型バスを脇に寄せたり、猛進してくるダンプカーに一時停止してもらうのは不慣れもあって冷汗ものです。

 





 支援申し出の受付が終わると、センター事務局員による野外での全ボランティア対象のスタッフ会議が始まります。

一日参加の支援者も復興活動の中のスタッフとして考えられています。
スタッフ会議が終わると、次に支援ニーズとボランティアグループとのマッチングが行われ、その日の支援する場所と活動内容が決まります。


 
 
 
 次は資材班の出番です。現場へ出発する前にマッチング班から渡された作業リストをもとに必要とする草刈り鎌、一輪車、土嚢袋、長靴などが貸し出されます(帰着時には使用した資材の員数の点検し、泥を洗って使用者が倉庫に返却することが申し合わせになっています。)。支援者全員がバスに戻ったところで、作業場所・状況についてのオリエンテーションと活動の注意事項が説明され、支援者は乗ってきたバスで現場に出発します。私たち残留スタッフは手を振っての見送りです。

   
 
 バスが出発すると、次は、資材洗浄用の水汲みです。センターと道路挟んで反対側は気仙川の石ころだらけの河畔です。ここに軽トラを止めてポンプで水を汲み、センターの貯水タンクに注水します。200リットル5本と、500リットル1本のタンクが満タンになるまで、軽トラ車に乗せた200リットルタンクと自家発電機に重たいポンプを使って取水と給水を繰り返すのです。最初はこのタンクにバケツで水汲みをするのかと考えていただけに手順の煩わしさを忘れてホットした思いでした。



 取水・給水が終わり、余裕があると前日使用した鎌の砥ぎ直しを手持ちグラインダーでやることになっています。
ところがバスで出発した支援者グループから作業現場での資材の追加補給の依頼が飛び込んできます。
すぐに鎌とぎを止めて補給資材を車に積んで配達に行くことになります。土地勘の無い白紙の地域、しかもナビの示す道路は津波で消失している現場への資材配達は白地図に点を打っただけの地図を持たされても大変な難い仕事になりました。
 
補給配達が無い日には、地図は覚えたはず(覚えるために?)ということで、センターの日常活動から生まれたごみを、ほろ付き2トントラックに押し込みクリーンセンターまで搬送する仕事を頼まれ、鎌とぎは地元のボランティアさんに一手に引き受けてもらうことになってしまいました。



 これらの後方支援作業は朝出発したボランティアが活動を終えて戻ってくるまでに済ませておかなければなりません。 
出発した車の台数と予めスタッフ会議で決められた当日の活動時間を頭に入れて、帰る時間を想定して、気持ちよく後片付けをしてもらえるように計画的に作業をこなしておくことが必要なのです。
  
 5時からは、センター支援のスタッフ全員が集合するリーダー会議が招集され各班の一日の作業報告の発表があり、その日から参加したスタッフと明日帰ることになったスタッフ一人一人の挨拶があって、その日のボランティアセンターの一日の活動が終わります。

 
 
心に残ったもの

 私の班の支援活動はセンターのサポート業務のため、被災現場での草刈りや重機で浚ったあとの瓦礫の収集作業は行えませんでした。そのため現場での活動の厳しさ、難しさを肌身で知り得たわけではありません。また、大きな被害がそのままに残されている半島周辺の集落の惨状も車で通り過ぎただけです。水たまりの中に骨格だけになった建物の残骸は遠目でしか見ることはできませんでした。まして被災者の方との話をすることができたのはセンターにボランティアで来るわずかな人だけです。直後の阿鼻叫喚の状態からすれば落ち着きが戻りつつあるのは理解できても、自分がこの中で何が出来たか、どこまで分かったのかと言えば、正直NOです。

 しかし、多くの支援者の手で、確実に田畑に草がなくなり、仮設ではあっても道路を復旧資材を山のように積んだ工事車両が走りまわるようになり、瓦礫が重機で細分化されながら片づけられて、荒涼とした景色が徐々に変わっていくのをぼんやり感じながら、依頼者から感謝の便りが寄せられたり、泥の中から発見された泥にまみれた写真や診療券が何枚も重なって入った財布が「思いで館」に届けられていくのを実体験として目の当りにすると、厳しい現実と向き合っている被災者の気持ちに自分も少し近づけたように感じられてきます。心のつながりを意識するようになっているように思えるのです。

 また、一日の終わりのリーダー会議の中で、家に帰ることになった若い女性が、昼間の屈託のない笑い顔や声からは考えられないあふれ出る大粒の涙を終始ぬぐいながら、「1か月余りの長い支援活動を事情で中断するけど、温かい支援者に会いにまた戻ってきたい。」としゃくりあげながら言うのを聞いたり、数回の支援活動の中で生涯の伴侶見つけたという、恥ずかしがり屋の青年が新婦と共に、スタッフの前でセンターへの熱い思いと、明日になった惜別の悲しみにてらいもなく涙を流して挨拶するのを聞くと、改めてこんなにも心優しく、純粋な青年たちの存在に気づかされます。復興は一筋縄ではいかなくともこのような青年の純な気持ちがこれからの支援活動の軸になって行ってほしいと切に思いました。私も支援の時空は別にしても彼らのそばにいたいと思っています。

 

 
 
2011年9月 澁川典昭 記