つくし野殿山市民の森管理委員会
 

つくし野の地に市民の森が誕生できましたのは、持主の山下多吉氏のご好意によるものです。

殿山の由来をご紹介いたします。

市民の森あたりは、昔、殿様の屋敷跡だったと言い伝えられてきたところから、殿山と呼ばれてきました。そして、この山は、現在よりはるかに高く、広かったそうです。

明治38年鉄道(横浜線)工事をする際、殿山の一部が掘り返されました。そこからは、縄文時代の住居跡や古墳が見つかり、たくさんの土器や、まが玉、水晶が発見されたそうです。(町田市立博物館に保管展示)。

古墳跡は長い間、蚕の桑置き場として使われていたそうですが、線路や区画整理でほとんどなくなってしまい、今では横穴古墳ひとつ残るだけとなってしまいました。

線路の反対側は、なずな原といい、やはりたくさんの土器やつぼが出たとのことです。この一帯は高台で大変景色が良く、古代から水にも恵まれ、人間の住環境に適したところのようでした。

このように由緒ある殿山を、山下氏はどうしても造成する気になれず、一度はそのままで、自分が住むことを考えたそうですが、山を削って低くしたとはいえ、高台に建てる家までの昇り降りは大変で、住むことは断念したそうです。

しかし、何とかしてこの山をこのまま残したいという山下氏の希望と、「緑の保全」を推進している行政との考えが一致して、このような幸運な結果(つくし野市民の森の開園)となったのです。

殿山の周辺は、あたり一面、山や谷の地形でした。この辺り一帯は「小川」と呼ばれ土地区画整理事業によって宅地造成がなされ、「つくし野」が誕生しました。その後、早いもので30年になりました。 

この地で育だった子供たちには、まぎれもない“ふる里”になりました。

そのふる里の遠い遠い昔のおもかげをとどめた殿山・・・・。

何千年もの歴史が一瞬の間に壊されてしまう中で、勇気と愛情をもって、この文化的遺産を子孫に残してくださった山下多吉氏に、心よりの敬意と感謝の意を表すと同時に、今後私たち住民の一人一人がこの様な自然の遺産や緑に関心を持ち、その保全や育成に力を注いでいかなければならにと思っています。